朝鮮人強制連行調査の記録 大阪編④ 強制連行被害者の証言から
朝鮮人強制連行調査の記録、大阪編
まだ続きます。
スーパー歴史修正主義勢力、大阪維新の会が住民投票で負けましたね。
しかし、その勢力が大阪で圧倒的な権力を握っていることに変わりはありません。
朝鮮人強制連行の歴史について、継続してもっともっと真相を究明していかなければいけないと思います。
①書籍の紹介、②「強制連行とは何か」、③連行に関わった企業について、
と見てきました。
朝鮮人強制連行調査の記録 大阪編② 強制連行とは? - 留学同大阪ブログ
朝鮮人強制連行調査の記録 大阪編 ③ 戦犯企業について - 留学同大阪ブログ
この記事では、二冊の書籍に紹介された被害者の証言をまとめます。
一人ひとり紹介するのではなく、10名程度の証言からどのような実情、被害があったのかということをまとめます。
詳しくは書籍をご覧ください。
証言をまとめた書籍はたくさんあります。是非ともできるかぎり多くのものに当たりたいと思っています。
ほかの書籍に関しても、追って紹介したいと思います。
証言が残っていること自体が非常に貴重で、日本政府や関連企業は真相を究明する活動をせずに、むしろ阻害してきました。 解放後の在日朝鮮人弾圧、現在の朝鮮総聯弾圧もその阻害事例そのものというべきです。
そんな中、在野の活動として粘り強く行われた証言収集活動を主導したのが朝鮮人強制連行真相調査団だといえます。調査団が地域の歴史研究とつながり、真相究明活動を行ってきました。書籍は、その成果物といえます。
書籍に収録された証言
「故郷に帰りたい -生玉公園地下壕」 李鉉珠
「黄海道から二百人の中学生が連行される -川崎重工泉州工場」 成培根
「私の人生は強制連行され台無しに -日本製鉄八幡製鉄所から転々と」 鄭萬均
「妻子とひき裂かれ『徴用』 -三井三池炭鉱」 権玄奎
「豚の餌を食べてなぐられる -三菱鉱業崎戸炭鉱」 鄭守伍
「千五百人の朝鮮人徴用工が犠牲に -南太平洋タワラ島」 劉喜亘
「騙された私が悪いのか 苦しかった!辛かった! 涙の青春 -静岡県、東京麻糸紡績沼津工場」 金福萬
「海軍軍属、猛爆のもと『命預けて働け!』」 趙龍圭
「17歳の若さで犠牲になった朝鮮人軍属」 故 金石彬
「『皇国の臣民 忠誠をもって君国に奉じるべし』 植民地奴隷の被害を償え!」 金泳九
以下、証言の中身を内容ごとに整理します。
◇拒否する余地のない連行、詐欺・甘言による連行
「1939年、釜山にいたときのある晩、警察の私服がやってきて、『国(日本)のために』といわれ、無理やり引っぱられてこられて着いたのが博多だった。」
「川崎重工に強制『徴用』された中学生が来たのは1944年前後だと思う。彼らの存在は、お腹をすかした朝鮮人中学生が、物乞いのように食べ物をもらいに来たのでわかった。」
「1939年のことだった。中村という郡の役人がやってきて、『金もうけのできるいい仕事がある』と勧誘した。友人がいっしょに行こうというので『徴用』に応じた。」
「『この家には働き手が二人いるから一人日本へ働きに行きなさい』という内容の手紙でした。警察の人が『2年間、日本へ行って働いてこい』と言いました。そのころ、村長や警察のいうことは、朝鮮総督府の命令であり、それに背くことは許されませんでした。」
「わたしが盆で故郷に帰ったとき、帰省していた働き盛りの者をねらって『徴用』しようとする役場の連中がやってきた。指揮するのは日本人で、その手先となって『朝鮮人狩り』をするのは同じ朝鮮人の小役人だった。 逃げまどう男たちは山を上っていく。それを追って小役人たちが山へ上っていく。追われるものも追うものも白衣の朝鮮人である。山が突然白くなる。その山を見た光景を、私は今でも忘れない。捕まった者は必死に逃げようと抵抗するし、その家族の母親や妻たちは泣き叫ぶし、まさしく修羅場だった。」
前々回の記事でも書きましたが、「強制」の意味をリアリティをもって認識すべきだと思います。 そして、実態がどうだったのかということを真摯に追求したいと思います。
何よりもまず、被害者の声に耳を傾けることから。
証言編、長くなってしまったので、続きは次回の記事へ。
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