朝鮮人強制連行調査の記録 大阪編⑥ 大阪大空襲の朝鮮人犠牲者
1945年の大阪空襲。
そこには多くの朝鮮人犠牲者がいました。
しかし、その実体があまりにも不明なままにされています。
これは、大阪だけでなく、全国に共通する問題だと思います。
在日朝鮮人が、どのようにして日本へ渡ってきて、どこで、なぜその場にいて、どのような仕事をして、どのように亡くなったのか、
人間の生きた痕跡が闇に葬られたままにされています。
まして、空襲当時は、強制連行、強制労働により大量の朝鮮人が国内外の過酷な労働現場に連行されていた時期です。
日本による植民地支配に起因して、日本にわたって来ざるをえなかった人たち。1930年代以降、日本の侵略戦争に端を発する戦時動員、強制連行により日本の地に連れてこられた人たち。
日本の軍事産業・工場や軍事施設建設に従事させられた朝鮮人は少なくありません。
人口との比較でも高比率であったことが推測されます。
原爆の被害者の比率も朝鮮人が高いということはよく言われるところです。
それだけ、日本の戦争遂行のための軍事工場、施設に連行、動員され強制労働を強いられた朝鮮人が多かったということでもあります。
大阪も例外ではないはずです。
しかし、資料の不足(日本の国家や企業の積極的な抹消による)、また被害者として名前があったとしても日本名での記録(日本による創氏改名=民族抹殺政策による)の問題など、可視化・歴史化されていない状態にあります。
冒頭の写真は、そのような現状で空襲での朝鮮人犠牲者を追悼し真相を究明する活動を行うために企画準備された集会用の資料です。
(社会情勢をかんがみて延期となりました。)
空襲での死者の約一割は朝鮮人であったと推測されるとありますが、筆者はより高い比率であったと推測しています。
「連行された朝鮮人が主に軍需工場で部落を形成していたことを考慮すれば、東京大空襲での朝鮮人被害は日本人よりも高率と見るのが妥当であろう。」
(資料内の論文 梁大隆「東京大空襲74年、朝鮮人犠牲者はなぜ、そこに、いたのか」)
戦時期に、朝鮮人を苛酷な労働に従事させていたことは周知のとおりであるが、危険な労働環境とともに、空襲が始まると、より攻撃を受けやすいという意味で危険な現場に朝鮮人を配置していた、または空襲を回避する術から遠ざけるということは容易に推測される。 実際に防空壕に入ることを拒否されたという事例もある。
同資料中の、中村一成さんの文章には、空襲で亡くなった柳大根氏の例が紹介されているが、1943年に平壌から甘言・詐欺によって連行され、「最初から『囚人』扱いであった」とある。
(中村一成「オモニ、ぼくを助けてください 平壌出身の『徴用工』、柳大根の想いを背負って」)
また、同資料中、樋口雄一さんの論文「在日朝鮮人戦災者239320人」では、在日朝鮮人の犠牲についてあまりにその実態が明らかにされていないことを指摘している。
「これだけ大きな犠牲を在日朝鮮人に強要したにもかかわらずあまりにもその実体が知られていないことに気付いた」
「在日朝鮮人戦災者数といってもその実体は不明の部分が多く、ほとんど判っていないといってもよい。」
「在日朝鮮人戦災者の全国状況や、在日朝鮮人戦災者達が何を日本人に問いかけているかということについては独自な研究と議論が必要であるようにおもう。」
資料に目を通しながら、昨年2019年に参加した沖縄でのシンポジウムでの学びを思い返しました。
留学同情勢ニュースブログ 『日帝強制動員犠牲者遺骸に関する国際シンポジウム』参加記
自分たちが絶対に無かったことにしてはいけない歴史。
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