留学同大阪ブログ

在日朝鮮人大学生・専門学校生の団体です。在日コリアン学生、歴史、文化、教養

「祖国とは、このようなすべてのことが起こってはいけないところ」 論文執筆、講演会終了後雑感③

前回、前々回の続きです。

 

最後に、「ウリマル」、「祖国」というキーワードについてまとめたいと思います。

 

 

「ウリマル」: 

 

 ウリマルとは、自分たちの言葉。自分たちの「ことば」を取りもどさなければならない。

 

 それがまさに朝鮮語そのものであり、朝鮮民族の闘争の歴史そのものであり、私たちが祖国を語ることばである。いいかえるなら、それは知性であり、思想であり、信念である。

 

 資本主義・帝国主義権力は、「祖国」とともに、「ウリマル」に対して弾圧を加える。ことばを攻撃し奪うことで、抵抗の芽をつみ民族まるごと支配しようとしたのが日本帝国主義である。

 自分たちの「ことば」=朝鮮語・朝鮮の歴史・朝鮮民族の尊厳を抑圧し抹殺しようとする権力と対峙し真っ向から抵抗し、自分たちのことばを取りもどし、自分たちの歴史を取りもどすこと。それこそが在日朝鮮人が「ウリマル」を学ぶ意義といえるのではないだろうか。

「ウリマル」なくして歴史を取りもどすことはできない。自分たちのことばをなくして植民地主義からの解放はありえない。

 

 

 祖国統一の問題と、ウリマルの問題はつながる。

 資本に思想意識まで従属させられた人間が祖国を語ることはできない。今まさに従属させられているからこそ、今の自分たちは祖国を語ることができないのかもしれない。

「ウリマル」を失っているために、その歴史性と政治性を脱色されたものしかもたないために、祖国を語ることばを持たないのかもしれない。

 

 

「祖国」: 

 

二つ目の論文に書かれているように、「祖国とは、支配され抑圧され分断させられてきた朝鮮民族が、無条件に肯定される場所」と定義づけた場合、その場所を得るためには、それを疎外する力との闘争が不可避となる。祖国とはそういう意味で、地理的意味のみが込められた存在ではなく、歴史的政治的な意味が全面に現れる存在である。朝鮮民族の語る「祖国」とはそういった意味が必然的に含まれる。

 

 「祖国とは、このようなすべてのことが起こってはいけないところ」

 

と、ガッサン・カナファーニーは、パレスチナの破滅的な現実を前に書いた(『悲しいオレンジの実る土地』より)。

私たち朝鮮民族にとってはどうだろうか? 分断・戦争・支配・従属、祖国とはこのようなすべてのことが起こってはいけないところと声を大にして言うべきだろう。

 

 韓国はどうか?共和国はどうか? 北か南か、分断志向で祖国を語るなという声が聞こえてきそうだが、大事なのはその内実である。北・南で語るつもりなど在日一世の語りにはそもそもないし、そう思考させようとする力に常に抗うべきである。しかし、そのうえで、自主を求める人民の闘争の歴史、階級闘争の歴史として自分たちは主体的に認識を深め自己を鍛えていかなければならないと考える。

 

「祖国」と語ることばを持たないということは、資本の論理にからめとられる。従属させられる。なぜなら、朝鮮民族を支配し抑圧し分断させ、朝鮮の自主独立国家建設を阻害したものこそ、資本主義・帝国主義権力であるためである。

 

 私たちは祖国をこそ語るべきである。私たちこそ祖国を語るべきである。

 

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