朝鮮人強制連行調査の記録 大阪編⑤ 強制連行被害者の証言から 続
前回に続き、強制連行被害者の貴重な証言資料を整理します。
実態を想像し、不法・不当な犯罪行為の賠償・補償をさせるために。
労働現場での暴力
「憲兵が見張っていて、熱かろうが寒かろうが早朝から一日12時間働かされ、病気になっても休めなかった。」
「私は福岡県大牟田市の三井三池炭鉱に連れていかれ、毎朝『君が代』『皇国臣民の誓詞』の暗誦からはじまり、『皇国臣民』としての義務と使命についての洗脳教育を郡の監視下で強要された」
「印象として強く残っているのは、食事が大豆や大根のまぜご飯で、しかも量が少なく、とにかく腹がへってしかたがなかったことだ。守衛が番をしていたので、腹が減っても外に食べに出ることもできなかった。そんな毎日がしんぼうできず、逃げる人が月に一人はいたが、逃げて見つかって捕まった。そんなとき会社側の殴ること殴ること。私の隊では、殴られたため一か月ほど動けず仕事ができない人がいたが、あんな調子では殺された人もいたと思う。」
「私が働いていた沖の山炭鉱で、事故で死んだ人の話をよく聞いた。」
「あの島(崎戸島=「軍艦島」)から逃げようとしてリンチされた人、仕事中の事故で死んだ人、死んでも葬式すら出してもらえなかった朝鮮人がたくさんいた。あれだけ働くだけ働かせて」
「このようにつらい毎日でしたから、ここから逃げ出そうという人もいました。しかし、たとえ逃げても警察や日本人の監督に追いかけられ、つかまえられ、つれ戻されます。そして、みんなが見ている前で、死んでしまうほど殴りつけられました。気を失ってぐったりすると、体に火をあてて気づかせ、また殴りました。」
より苛酷な労働と民族差別
「夜明けから夕陽の暮れるまで仕事をさせられ、睡眠時間なんてほとんどなかった。」
「朝鮮人は80パーセントが、つまり土方だけをやらされ(生玉公園地下壕)、それがすむと大阪砲兵工廠の疎開工場を作るために園部(京都府)のほうにみんな行かされた。」
「寮といってもまるで刑務所のようなものであり、一日12-14時間労働が強要されていたので、ただの寝床に過ぎなかった。 作業は坑道の石炭掘りだったが、安全設備などまったくなく、毎日のように落盤事故などで負傷者が続出したが、タンカで坑外にに運び出された彼らについては、ただ死んだとか不具になったとか噂されるだけで、その事実を確かめるすべもなかった。」
「私たち朝鮮人は、こんなにきびしく危険な仕事をしていましたが、お金は日本人の半分もくれませんでした。そのお金ですら『お金なんか何に使うんだ。帰国するまでは預かっておく』といって私に渡してくれないこともよくありました。」
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故郷、家族との引き裂き
「私が連行されて釜山をたつとき、泣いて立っていた父母を見たときの気持ちは言葉にあらわせない。あれが最後の別れになってしまった。」
「私はその後(解放後)もそのまま日本にとどまった。数年前、何十年ぶりに故郷の土を踏んだが、連行前に結婚した妻の消息は不明。」
賃金未払い、詐欺、補償もせず
「働けど働けど、そんな賃金など一度ももらったことはない。」
「日本人は65歳になれば多少なりとも年金をもらえるが、われわれは何ももらえない。」
「ところがその後(解放後)、何の手当もくれず会社側から『お前らはもう用事がないからここから出ていけ』といわれたときには、手元に金がなかったのと会社側の無情な言葉に、ほんとうに情けないやら、悔しいやら、腹が立つやら、不安な気持ちと解放の喜びが入り交じって、とても複雑な気持ちだった。」
「放り出された悔しさは今も忘れることができない。思い出すと本当に腹が立って、今からでも裁判所に訴えたい思いでいっぱいだ。 また、そのそのときの仕事のことを思い出すと身震いするし、今でもたまに夢見ることがあるが、冷や汗でびっしょりになる。本当に忘れてしまいたい気持ちでいっぱいだ。」
「朝鮮から連れてこられた私を、無理やり働かせた土木建築会社は、今でも日本で有名な会社です。その会社も私が働いた給料を、払ってくれません。日本政府も、私に何の償いもしていません。悪かったというお詫びもありません。私は若いころ食べ物もなく、ひどい仕事をさせられ、口には言えないほどの辛い思いをしてきました。今でもあの時のことは、一日に一度は思い出します。」
ここで紹介できない、もっと多くの証言があります。
是非、証言の部分だけでもお読みください。
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