【在日朝鮮人運動への提言 ―「ウリマル」「祖国」「日本」―】 論文完成/対外講演会終了後、雑感①
2021年2月28日、留学同大阪対外講演会「在日朝鮮人運動への提言―「ウリマル」「祖国」「日本」―」を開催しました。
①「ウリマル」の可能性、
②「祖国統一」と在日朝鮮人の主体性
という二つのテーマで、学生たちが発表をし、それに対して多くの質問や意見を出していただき、活発な議論が行われました。学生たちが発表した内容は、冊子「在日朝鮮人運動への提言ー「ウリマル」「祖国」「日本」ー」の論文にまとめられています。
そのうえで、質疑応答の内容も含め、講演会終了後の感想を何度かに分けてまとめたいと思います。
「祖国統一」を語ることばを持たない。
まず、はじめに感じたことは、自分たちの中に「祖国統一」がないということ。
「祖国」、「祖国統一」というテーマを持ち出されたときに、ことばを持たないというのが私たちの現状といえる。それは在日朝鮮人社会全体にとってはどうだろうか。祖国との関係が自分たちの生活や生き方にどのように影響するのか。意識的に生きている在日朝鮮人がどれだけいるだろうか。
「民族意識の希薄化」が語られる。
それは日本政府による民族抹殺政策のもたらしたものである。日本の権力の朝鮮学校への攻撃、在日朝鮮人の自主的な民族教育への弾圧をみれば明らかである。その中でも、「祖国」が真っ先に攻撃の対象にあげられる。祖国との関係を断つように、祖国の歴史、民族解放闘争=祖国の独立運動の歴史が問題視される。そうした観点から、在日朝鮮人が祖国との関係を自ら断ったとき、日本帝国主義の在日朝鮮人への同化政策は完成するといえる。
それに対して、私たちはどのように立ち向かうべきだろうか。二つ目の論文では、在日朝鮮人一世・二世の感情、経験、思想に着目した。一世、二世の同胞の中には、条件反射的に「祖国」、「統一」という言葉が出てくる人たちがいます。無意識に当たり前に「祖国」を語られる。
在日朝鮮人三世、四世が「祖国」「祖国統一」意識が薄くなっているのはなぜだろうか?「経験」がないのか?「認識」がないのか? 経験や認識をする機会がないのか?
学ぶ機会が失われていることは一つの事実だろう。しかし、それだけではない。私たちは、自らすすんで「祖国」に背を向けてはいないだろうか。日本社会の空気を読み、資本主義社会の波に乗るために、それに抵抗する性格をもつ「祖国」を積極的に見ないようにしていないだろうか。「祖国」の議論を積極的に避けてはいないだろうか。朝鮮民族の歴史、尊厳、理念を冷笑し、ないがしろにしてはいないだろうか。
論文執筆、講演会準備を通じて、改めて自分たちの生活・行動・実践・思想を今一度ふりかえる必要があると思いました。熱い心と、冷静な頭脳をもって。