「教育」に関する学習と雑感 「学び方改革」「資本主義と教育」「新自由主義」
アンニョンハシムニカ!
本を読みながら考えたことをまとめたいと思います。
雑誌『世界』2017年3月号を読みました。
「学び方改革」、「アクティブラーニング」などが叫ばれ出したころのもので、買ったものの読まずに放っておいていたもの。
2020年度から新たな学習指導要領が出ていますね。
そういった事情もあり特集の部分だけ読みました。
『世界』は特に購読はしていませんが。
内容として、収められている文章は、
1.新しい学習指導要領は子どもの学びに何を与えるか?
2.アクティブ・ラーニングは可能か?
3.結果責任の支配
4.美しく語られすぎた「部活動」を読み解く
5.何が教育の自由と中立性を担保するか
3年前のものですが、タイムリーですね。
4、「部活動」の問題などはまさに。
甲子園がどうとか、インターハイがどうとか、全国大会がどうとか、
(個人的には、最近の高校野球は過剰に加熱しすぎで冷めています。他のスポーツもしかりかと思います。高校野球経験者ですが。 今回のことで考え直すきっかけになればと思いながらも、そうはならないでしょうね。)
教育においても、新自由主義の問題を感じました。
・教育の市場化
・産業との連携重視
・福祉国家、「平等」への攻撃
・パフォーマンス重視の教育
・「何ができるようになるか」「仕事に役立つかどうか」の重視
・自己責任化
・教員の削減、疲弊
*印象的だった内容をいくつか
新自由主義教育の弊害
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「教師は専門性を失い効率化の名のもとに人数が削減される。」(上記3.より)
「『教える』ということが画一化、デジタル化され、「カリスマ」が遠隔で不特定多数に教えるようになる。」(3.)
「成果の見えにくい学問は不要とされる。」(3。)
「新自由主義教育改革は、子どもたちを単なる点数とみなし、市場原理にゆだねることで、かれらの教育に関するさまざまな政治的決断に親やその他の市民たちが介入する民主的スペースを奪ってしまう。」(3.)
「政治的教養に関する学習要求の低さは、姓との政治活動をほぼ全面的に禁止し、学校教育全体を通じて系統的に関心をもてなくさせてきたことによる。」(5.)
「教師が授業などで政治的な事がらを扱うだけで「偏向教育」のレッテルをはられる。」「安倍政権、自民党による教育内容への介入」「特定の授業を名指して偏向教育だと告発」(5.)
教員の問題
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「「主体的で深い学び」を提供するためには、教員の余裕が必要。自主研修の時間が必要。」(1.)
「教員は自分の専門科目については深い知識を持っていても、それを教育に関する高次の概念に抽象化させる機会が少ない。」(1.)
「抽象度の高い概念や理論を自らのツールにしないと、教員相互で議論できないし、新しい授業を知的に展開する力量は身につきません。」(1.)
「大切なのは、教員自身が「深い学び」を経験する機会を継続的に用意することです。」(1.)
「「いい教員」には様々なタイプがいて、そこに至るプロセスも多様です。だから、多種多様な機会を用意すべきです。」(1.)
学校と社会(全て、1.より)
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「教育課程が社会に迎合していく懸念がある。生活上の目先のニーズや進学実績などに。」
「しかし、そもそも狭い日常生活を超えた知を学ぶのが学校教育の本質」
「教員がいかに創意工夫できるようになるか。条件整備と自主的な研修。」
「個々の学校や教員の自立性の尊重。失敗を許容する姿勢。学ぶ機会の確保。」
「これまでにない概念や理念について学ぶ。」
「保護者の方々については、目先の短期的な子どもの結果を求めすぎないこと。」
「子どもの成長を多面的にみる。」
「地域社会は、質の高い教育には手間暇がかかるということを理解してほしい。」
「長期的な視野に立って子どもの未来について考える。」
「世論が教育への予算増に無関心で、また学校が取り組んでいこうとしている新しい教育のあり方の意義を十分に理解してもらえないと厳しい。」
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個人的には、「教育」というものの本質、社会教育・学校教育・地域教育・家庭教育というものつきつめて考えると、「資本主義」とは相いれないものではないだろうかと感じました。
具体的な成果や「何ができるようになるのか」、語学やプログラミングなどに目がいきがちですが、「教育とは何か?」という抽象的な問いを同時につきつめていきたいと思いました。
(黄貴勲)