『チーズはどこへ消えた?』批判 いろんな人が紹介しまくる名著を右前方斜め上から批判コーナー①
新コーナーです。
その名も、
「色んな人が紹介しまくって称賛しまくる名著を右前方斜め上から批判する」コーナー
記念すべき第一回目は、
不朽の名作といわれる
です!
読んだことある方も多いのではないでしょうか。
2匹のねずみと2人の小人の物語。
子どもでも読めそうな童話です。でもかつビジネス書といわれます。
舞台は迷路。
みんなで見つけて、たくさんあったチーズ(生存・幸せの担保の象徴)がある日突然なくなります。そのとき、ネズミはすぐに次のチーズを探しにいくのですが、小人はすぐに足が進みません。
そんな中、一人の小人は変わらなければと動き出します。
もう一人は、あれだけたくさんあったチーズがなくなるわけがない!とその場所に固執します。
だいたい、オチはわかりますよね。
目の前の「チーズ」(生存・幸せの担保)がなくなっても、勇気を出して迷路の別の道を進み、次のチーズを探しに行くことが重要だ。
みたいな感じでしょうか。
時代や状況の変化を恐れずに、現状維持に甘んじずに、常に先へ常に前進。
それでこそ幸せをつかむことができる。幸せを自分からつかみにいくんだ。
といったところでしょうか。
何かよさげに聞こえますね。「その通りだ」っと言いたくなります。
めちゃくちゃ売れるのは理解できます。マスコミによる誘導、権力による操作もあると思いますが。
もちろん、時代の変化に対応するということが大事だということはその通りだと思います。異論ありません。自分を反省しながら読みました。
また単純に、面白い本だとは思います。
これを斜め上から歪んで批判します。
「迷路」 と 「チーズ」を考えてみます。
まず、「迷路」って何でしょうか?
社会の構造、いろんなことが起こりうる人生を表しているのですかね。
でも、迷路って、だれが作っているのでしょうか。
社会ってだれが作っているのでしょうか。
もちろん人ですよね。
この本には、「迷路」そのものに対する疑問は出てきません。
迷路を歩いて、チーズを見つけた人がそこに固執することをやめるように促しますが、勇気を出して迷路を進まないと生きられない世界。
自己責任論万歳のにおいがプンプンします。
最後、とり残された片方の小人は
そもそも「迷路」自体を問う視点は?
「社会」というものに対する考察がないことが大きな問題ではないでしょうか。
特に、この資本主義社会のゆがみに対する批判的考察が必要なのではないでしょうか。
この本が、ビジネスの世界、資本主義構造の中で称賛されることはすごく理解がつきます。
迷路を作って操作しているのはざっくりいうと資本家ということですね。
そういうことですね。
「チーズ」
チーズを操作している、迷路を恣意的に形成している。
つまりチーズを誰がどのように作って置いているのか?
自然に出てくるのでしょうか?
違いますよね。
人ですよね。
人が迷路を作り、チーズを置く。
ただ、人といっても、現実はみんな平等に参加できているのではありません。
そう、「権力」です。
「権力」に対する考察が必要だと思います。
政治権力は常に金持ちを救済する。
税金が金持ちに流れていく仕組みがありますよね。
リーマンショックでも、新型コロナでもその仕組みは明らかになりましたよね。
「迷路」にしても「チーズ」にしても、そういう政治経済的観点が必要では?
つまり、社会自体に対する批判的考察が無いものとされているのではないでしょうか。
特に、資本主義というもの自体を。
それを無視してまうと、誰が得するのか。
そう、資本家をはじめとする権力者ですね。
だから、この本はこの資本主義社会で称賛されるわけですね。
小人とネズミが紆余曲折を経ながら、団結して迷路自体をぶち壊す、
もしくは迷路を抜け出して迷路を作っていた外の権力者をぶっ倒す。
私はそんな物語が見たいですね。
こんなこと書くと、「甘い」とか「夢物語」とか「現実を見ろ」とか「やってから言え」とか「青二才」とか「負け犬の遠吠え」とか言われそうですね。
でもポジショントークは一番しょうもないので、そう思った方は是非書いたことに対するご批判をいただければと思います。
また機会があれば他の作品も考えてみたいなと思います。
色んな本を読みたい・読まなければと思っていると、定期的に自己啓発本にはまる時期があるんです。 読んでみると良い点もたくさんあるのですが。
別にみんなが良いという本をあえて批判したくて書くわけでなくて、どうしても素直に受けとらず別のことを考えてしまうんです。
もっともっと批判的考察力を磨いていきたいと思います。 (黄貴勲)
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