『言語と国家、民族』 6月本部学習会報告① 在日朝鮮人と朝鮮語
先日、『言語と国家、民族』というテーマで、留学同大阪本部学習会を行いました。
私たち在日朝鮮人にとって、目の前にある課題だと思います。
なぜ朝鮮語を学ぶのか?
「ウリマル」とは何か?
なぜ民族教育が必要なのか?
今回から対面とオンラインの併用を試みました。内容も方法もドシドシ研究・深化させていきたいと思います。
以下、内容まとめ
「ことばは世界に先立つ」
「シニフィアン」: 音
「シニフィエ」 : 音で表されるイメージ
「もの = 名前」ではない。
「シニフィアン」が示す範囲は言語によって異なる。
名前というラベルを貼る → 対象を作り上げる。
= その他のものと区別する。世界を振り分ける。
例えば、「犬」と名をつけることは、その他の動物と区別する。犬の種類に関する名づけもほかの犬種との区別を意味する。
そして、区別によって、ものが存在する。
例2.
「虹」=7色?
これは、国家や地域によって異なる。
色の概念が異なるため。 信号機の「青」(緑なのに「青」)。
「ことばは世界に先立つ」
ことばがない= 概念がない ということになる。
重要なことは、ことばが思考を決めるということ。ことばは単なる思考のツールではない。
「話すことは書くことに先立つ。」
パロール(話す行為)は、常に変化する。
ことばの社会性。交わされることによって、常に変化をともなう。
その変化を記録していくことによって文法が形成される。
2.言語と国家、民族
田中克彦「ことばと国家」
「ことば」とは、意味をともなうもの。何らかの対象を表すもの。
「言語」とは、一つの民族単位で話されている言葉のくくりである。
そこで、括られた一つの共通する言語とは何か?
では、方言は?
全く理解できない琉球方言はどうか?括られた一つの共通する言語といえるのだろうか?
そう考えると、一つの言語の境界は非常に曖昧であるといえる。
「民族を作るのはだいたいにおいて言語である」(ソシュール)
民族 = 言語の共通性なのだろうか?
「言語の違いが民族を生み、国家を生む」?
→ 方言によって民族、国家が作られるのだろうか?
← そこで、「文字」の役割。統一した国家に統合するうえで。
教育によってもたらされる。
*本来、「言語の違い=国家の違い」とはならない。ただし、言語の相違は、国家を作りだす可能性を生む。
「母のことば」=母語
生まれて間もなく身につけることば
取り替えることができないもの
「父のことば」=ラテン語よりも俗語の優位性を主張(ダンテ)
・自然である
・高貴である
・愛のことばである
*特権階級のことばとしてのラテン語を批判
母語から「母国語」へ
母語は、民族思想を生み、現存の国家の境界線を越えていくような力をひめている。
方言が行きすぎると、その地域のみが独立する可能性を生む。
その中で、学校教育の役割
方言の矯正、「標準語」への誘導、「国民意識」の形成。
→ 沖縄、アイヌ、朝鮮、台湾への支配の道具としても利用される。
フリッツ・マウトナー「学校とは鞭でもって方言をたたき出す場所である」
わかりやすい例として、
「罰札制度」:
沖縄において行われた。方言を使った学生に対して罰札をかけさせ、回数を計算する。琉球語=劣った言葉というレッテル。
1907年~はじまり、 1917年、第一次世界大戦時に強化される。
3.「劣った」言語
言語による差別
・言葉が通じないことで生じる差別
→ 非人間化。現在の在日外国人労働者への仕打ちをみれば明白。
植民地支配においても利用される。
・言葉が通じることで生じる差別
→ 「できそこない」「おかしな言語」という烙印
標準語による価値の独占。非標準語に対する蔑み。
さいごに
70年もの間、分断した状況で、独自のことばが発展する。
それぞれの「国語」が固定化される。
長い期間にわたって続けば続くほど、日常のことばの変化から文法も変化する可能性がある。
在日朝鮮人の「ウリマル」は?
生活の中でのことばの変化の成果。独自の朝鮮語を発展させてきた。
劣っているわけでは決してない。日本語や日本的な表現と混ざりながら発展させてきた。そもそも劣っている言語などない。
朝鮮民族にとっての言語、
在日朝鮮人にとっての言語、
決して一つの特異な事例ではなく、人間の歴史において、また未来を考える上で普遍的な課題であることがわかるかと思います。
さらに、帝国主義、植民地支配、民族差別といった歴史と現状のなかで、極めて生活的かつ政治的なテーマであるのではないかと思います。
引きつづき、研究を深めていきたいと思います。
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