留学同大阪ブログ

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【植民地主義論!】エメ・セゼール  超明快痛快植民地支配批判 ②

アンニョンハシミカ!

エメ・セゼール植民地主義論」つづきです。

良い文章が多すぎて、いくらでも紹介できてしまいます。

 

前回は、植民地支配がいかに野蛮な極悪犯罪かという点について、セゼールの論考をまとめました。

【植民地主義論!】エメ・セゼール 超明快痛快植民地支配批判 ① - 留学同大阪ブログ

 

今回もその続きです。

 

セゼールの文章は少し前に読み、その流れでフランツ・ファノンを読み返しています。

絶品です。超一級品です。

『地に呪われたるもの』『黒い皮膚・白い仮面』

『革命の社会学』『アフリカ革命に向けて』

 

全て必読書です。

フランツ・ファノンも紹介していきたいと思います。

 

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その中で、上のような本に出会いました。

 

『民族の独立』

ファノンの超スーパー必読文章「暴力」から、サルトル、マルコムX、カストロゲバラ毛沢東などなど、わくわくするようなラインナップです。

こちらも同時に読み進めています。

 

読書に入ると、無限に広がってとまらなくなります。

他のことが手につかなくなりそうに。

読書習慣を失わないように、なおかつインプットだけでなくアウトプットも。

何よりも人と会って議論するということを大事にしたいですね。

そして街に繰り出して声をあげることも。

 

ーーーーーーーーー

セゼールに戻ります。

 

 

ブルジョアジーの野蛮

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「ヨーロッパの野蛮から、アメリカの野蛮へ」

ブルジョア的野蛮は常道なのである」

「まっとうなブルジョアのことだ。残酷、虚偽、下劣さ、真っ当なブルジョアのもつものである。」

 

 

植民者とは?

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「サディスティックな植民地総督」

「拷問好きの警察官」

「ムチをふり回す入植者」

「貪欲な銀行家」

「べんちゃら遣いの政治家」

「指示待ちの司法官ども」

「嫌みたっぷりのジャーナリスト」

「愚かでドルまみれのアカデミー会員」

形而上学的ドゴン屋の民族学者」

「頭のいかれた神学者

ニーチェの股から悪臭を放ちながら出てきたインテリ」

「父権主義者」

「エキゾティックな愛好家」

「分裂を作りだす連中」

「懐柔屋、欺着屋、演説屋、文飾屋」

 

「西欧ブルジョア社会の防御のために汚らわしい分業システムの中で役割を果たす者たち」

「資本主義の手先。略奪植民地主義の信奉者」

 

 

悪魔的植民地主義学者の詭弁、宗教者、心理学者、社会学

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「支配種族としての金髪長身族と最下級の肉体労働に従事すべき劣等種族」

奴隷制は馬や牛の家畜化と同様、なんら異常なことではない」

「文明は現在にいたるまで、白人によってしか創りあげられなかった」

「白人の歴史以外に歴史は存在しない」

 

「依存コンプレックス」:被支配者は依存を必要として求めているという説。

「ニグロは大きな子どもだ」

「白人の負担」: 白人が負担して未開民族を文明化してやっている。

 

コンゴにおいて略奪が行われ、拷問が行われ、ベルギー人植民者があらゆる富を強奪し、一切の自由を抹殺し、一切の誇りを圧殺し、…… それでも心安らかであることを、タンペル神父は承認する」

 

 

漸進的非人間化

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ブルジョアジーの現代的問題は、暴力、腐敗、野蛮以外にはなく、またありえない。憎悪、虚偽、尊大もだ。」

 

モラリストたちにはどうすることもできない。」

「肝心なことは彼らの主観的な善意などというまったく当てにならない代物は、彼らの植民地主義の番犬としての悪行がもたらす客観的な社会的影響力とはなんの関係もないということなのである。」

 

 

引用ばかりになってしまいました。

しかし、すごい文章の連続です。ガツンときます。

③につづく。

(黄貴勲)

【植民地主義論!】エメ・セゼール  超明快痛快植民地支配批判 ①

アンニョンハシムニカ。

ようやく、「植民地主義論」です。

資本論帝国主義論~植民地主義

 

温めに温めました。

エメ・セゼール、『帰郷ノート/植民地主義論』

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超一級品の植民地主義批判です。

必読中の必読。衝撃の連続です。

 

特に「植民地主義論」は、70頁ほどの論考ですが、不朽の名作です。

こういった書籍が広まらない、なかなか翻訳されないところに日本の知性の退廃がみえます。

 

エメ・セゼールは、フランス領マルティニック島に生まれた詩人、作家、政治家です。

 

植民地支配とは何か?

そこはどういう世界か?

どこに問題があるのか?

 

植民地主義批判の部分に絞って、内容ざっくりとまとめると、

 

・植民地支配、植民地主義は野蛮の極みである。

・植民地支配とは、人類史上類のない不正義である。

・罪のない植民地支配などない。

ナチスの罪と植民地支配の罪は同類である。

・資本主義の彼方にはナチズムがある。

・ナチズムが生まれる以前から、資本主義は植民地という野蛮、重罪を犯している。

 

「植民地化と文明化のあいだには無限の隔たりがある」

 

「ヨーロッパは、人類社会に対して、歴史上もっともうず高く着き重ねられた死体の山に責任を負わなければならない」

 

「植民地政策には、ヨーロッパ自身の破滅が内在している」

 

 

セゼールの論考は、詩的で鮮やかです。

挑発的で明快です。

何度でも読む価値のある重みがあります。

 

セゼールのヨーロッパに対する強烈な批判、もちろん日本にもあてはまります。

全く同類の罪。野蛮さ。加害の歴史。

 

 

以下、内容、気になった部分をそのままピックアップします。

 

 

自らが育んだ「ナチズム」

ヨーロッパの袋小路

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「ナチズムはヨーロッパが育み、その責任は自分たちにある。」

「彼(ブルジョアジー)がヒトラーを罵倒するのは筋が通らない。」

 

ヒトラーの罪自体、つまり人間に対する罪、人間に対する辱めそれ自体ではなく、白人に対する罪、白人に対する辱めなのであり、それまでアルジェリアのアラブ人、インドのクーリー、アフリカのニグロにしか使われていなかった植民地主義的やり方をヨーロッパに適用したことなのである。」

 

「ヨーロッパのえせヒューマニズム

 

 

植民地主義学者の欺まん、罪

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「われわれが希求するのは平等ではなく支配である。」

「必要なのは人と人との不平等を廃絶することではなく、それを拡大し、一つの法たらしめることである。」

「未開諸民族の無能、怠慢、怠惰」

 

 

植民地化とは?

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「暴力、蛮行、残虐、サディズム、苦役、

 威嚇、警察、課税、略奪、強姦、文化強制、

 蔑視、不信、高慢、尊大、粗野、 

 思考力を奪われたエリート、堕落した大衆」

 

「植民地には、いかなる人間的接触もなく、あるのは支配と屈従の関係だけ」

 

 

「植民地化=物象化」

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宗主国の人間=支配者」「植民地の民衆=生産のための道具」

「中身の抜きとられた社会」

「踏みにじられた文化」

「蝕まれた制度」

「奪いとられた土地」

「じゅうりんされた宗教」

「壊滅させられた芸術」

「持続的な経済の破壊」

「抹殺された膨大な可能性」

 

 

日本が台湾で、朝鮮で、中国で、アジアで何をしたのか?

戦後も変わらずに反省せずに経済侵略、支配をおよぼしていった(およぼしている)ことをどのように考えるか。

これから日本が進もうとしている方向に何があるのか。

 

歴史認識の問題であり、現在の問題でもあります。

もっと広く読まれるべき一冊だと思います。

絶版です。古本屋で見つけた場合は即買い物です。

 

書きたいこと、紹介すべきことはまだまだあります。

続編に乞うご期待。

(黄貴勲)

 

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「教育」に関する学習と雑感 「学び方改革」「資本主義と教育」「新自由主義」

アンニョンハシムニカ!

本を読みながら考えたことをまとめたいと思います。

 

雑誌『世界』2017年3月号を読みました。

「学び方改革」、「アクティブラーニング」などが叫ばれ出したころのもので、買ったものの読まずに放っておいていたもの。

 

2020年度から新たな学習指導要領が出ていますね。

そういった事情もあり特集の部分だけ読みました。

『世界』は特に購読はしていませんが。

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内容として、収められている文章は、

1.新しい学習指導要領は子どもの学びに何を与えるか?

2.アクティブ・ラーニングは可能か?

3.結果責任の支配

4.美しく語られすぎた「部活動」を読み解く

5.何が教育の自由と中立性を担保するか

 

3年前のものですが、タイムリーですね。

4、「部活動」の問題などはまさに。

甲子園がどうとか、インターハイがどうとか、全国大会がどうとか、

 

(個人的には、最近の高校野球は過剰に加熱しすぎで冷めています。他のスポーツもしかりかと思います。高校野球経験者ですが。 今回のことで考え直すきっかけになればと思いながらも、そうはならないでしょうね。)

 

 

教育においても、新自由主義の問題を感じました。

 ・教育の市場化

 ・産業との連携重視

 ・福祉国家、「平等」への攻撃

 ・パフォーマンス重視の教育

 ・「何ができるようになるか」「仕事に役立つかどうか」の重視

 ・自己責任化

 ・教員の削減、疲弊

 

 

*印象的だった内容をいくつか

 

 

新自由主義教育の弊害

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「教師は専門性を失い効率化の名のもとに人数が削減される。」(上記3.より)

「『教える』ということが画一化、デジタル化され、「カリスマ」が遠隔で不特定多数に教えるようになる。」(3.)

 

「成果の見えにくい学問は不要とされる。」(3。)

新自由主義教育改革は、子どもたちを単なる点数とみなし、市場原理にゆだねることで、かれらの教育に関するさまざまな政治的決断に親やその他の市民たちが介入する民主的スペースを奪ってしまう。」(3.)

 

「政治的教養に関する学習要求の低さは、姓との政治活動をほぼ全面的に禁止し、学校教育全体を通じて系統的に関心をもてなくさせてきたことによる。」(5.)

 

「教師が授業などで政治的な事がらを扱うだけで「偏向教育」のレッテルをはられる。」「安倍政権、自民党による教育内容への介入」「特定の授業を名指して偏向教育だと告発」(5.)

 

 

教員の問題

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「「主体的で深い学び」を提供するためには、教員の余裕が必要。自主研修の時間が必要。」(1.)

 

「教員は自分の専門科目については深い知識を持っていても、それを教育に関する高次の概念に抽象化させる機会が少ない。」(1.)

「抽象度の高い概念や理論を自らのツールにしないと、教員相互で議論できないし、新しい授業を知的に展開する力量は身につきません。」(1.)

 

「大切なのは、教員自身が「深い学び」を経験する機会を継続的に用意することです。」(1.)

「「いい教員」には様々なタイプがいて、そこに至るプロセスも多様です。だから、多種多様な機会を用意すべきです。」(1.)

 

 

学校と社会(全て、1.より)

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「教育課程が社会に迎合していく懸念がある。生活上の目先のニーズや進学実績などに。」

「しかし、そもそも狭い日常生活を超えた知を学ぶのが学校教育の本質」

 

「教員がいかに創意工夫できるようになるか。条件整備と自主的な研修。」

「個々の学校や教員の自立性の尊重。失敗を許容する姿勢。学ぶ機会の確保。」

「これまでにない概念や理念について学ぶ。」

 

「保護者の方々については、目先の短期的な子どもの結果を求めすぎないこと。」

「子どもの成長を多面的にみる。」

 

「地域社会は、質の高い教育には手間暇がかかるということを理解してほしい。」

「長期的な視野に立って子どもの未来について考える。」

 

「世論が教育への予算増に無関心で、また学校が取り組んでいこうとしている新しい教育のあり方の意義を十分に理解してもらえないと厳しい。」

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーー

 

個人的には、「教育」というものの本質、社会教育・学校教育・地域教育・家庭教育というものつきつめて考えると、「資本主義」とは相いれないものではないだろうかと感じました。

 

具体的な成果や「何ができるようになるのか」、語学やプログラミングなどに目がいきがちですが、「教育とは何か?」という抽象的な問いを同時につきつめていきたいと思いました。

(黄貴勲)

 

【靖国問題! 植民地支配責任、戦争責任、戦後責任②】 本部学習会振りかえり

アンニョンハシムニカ!

前回、『靖国問題』の概要と重要だと思うポイントを書きました。

 

一つ補足しておくと、

靖国の戦前認識と戦後認識の連続性について。

戦前の「天皇の戦争=正しい」から、

戦後は、自衛隊の活動の正当化へ。

すなわち、アメリカの世界軍事戦略の正当化。

 

そして、その論理でいくと、アメリカの戦争に抵抗するアジア、中東、中南米などの民衆は「匪賊」「暴徒」という認識になるでしょう。

 

という意味でも、現在の問題でもあるということです。

 

 

そして続きです。

第三章 宗教の問題

 

一つは、「追悼」の問題

靖国神社では、権力による合祀の強制がなされた。

合祀を拒否できない。

その中には、思想的に神社参拝を受け入れられない人間もいます。

そして、日本軍の軍人・軍属として働くことを強制され、亡くなった台湾人、朝鮮人も数多くいます。台湾人は2万8千人余、朝鮮人は2万1千人余。

 

そして、靖国神社側は、「天皇の意志」として、合祀の取り下げ要求に応えない。

天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われた。

 

しかし、死者の追悼とは何よりもまず遺族の意思が第一なのではないだろうか。

そのような感覚は靖国思想には通じない。

 

 

二つ目は、「政教分離」の問題

 

日本国憲法第20条第3項

国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

首相の靖国神社参拝が問題視されます。

司法においても、違憲判断が出ています。

小泉首相(首相)の参拝について、福岡地裁判決で違憲判断がくだされています。

(当時、裁判長は遺書を書いて判決に臨んだと言われています。)

 

前回も書きましたが、

政教分離の問題の前に、中国や韓国からの批判の前に、靖国神社の思想そのものが問題となるべきであることを前提に。

 

日本は明らかに靖国神社そのものとその思想を温存し、建前のみを変えたうえで実践として再演しようとしています。

 

靖国特殊法人化という動きがあります。

政教分離をクリアするために、建前だけ宗教施設でないようにするという試みです。

「神社非宗教」論が出てきます。

超宗教論、非宗教論、無宗教論、などがあるそうです。

いずれにせよ基本は、神社は宗教ではなく日本固有の文化であるという主張。

 

靖国憲法にいう宗教ではない。日本人なら誰でも崇敬すべき『道』である」

(池田宮司の言葉)

 

 

そして、第四章 文化の問題 へ

 

「文化である」、「伝統である」、という回収に仕方。

そうして政教分離をごまかす。

さらにそこから、「日本の文化なのだから他国が批判するな」という論理へ行きつきます。

 

 

しかし、どう考えても靖国の思想は、明治の時代に創作されたものです。

資本主義の論理、帝国主義の論理とリンクして作られたものです。

 

そうした歴史性、政治性をすっとばして、「文化」「伝統」で片づけようとする企図が見えすえているかと思います。

 

あらためて、やはり歴史認識、そしてそれに基づいた戦後認識が問われると思います。

 

最後に、「問題は政治である」という筆者の主張はすごく的を得ていると思います。

付けくわえるなら、「問題は資本主義である」でしょうか。

 

(黄貴勲)

【靖国問題! 植民地支配責任、戦争責任、戦後責任①】 本部学習会振りかえり

アンニョンハシムニカ。

 

本部学習会振り返り。

靖国問題

 

「宗教と政治」というテーマで、靖国問題をとりあげました。

内容をここでまとめたいと思います。

宗教をテーマにしましたが、戦争責任、戦後責任、植民地支配責任のほうへと重点がいってしまいました。

 

高橋哲哉靖国問題』 ちくま新書

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を参考図書にしました。

今年度の学習は、一冊基本となる書籍を決めて行うスタイルでやっています。

 

靖国問題』。すごくいい本だと思います。

問題の取り上げ方、切り口、論の展開の仕方が明解です。

 

第一章 感情の問題

第二章 歴史認識の問題

第三章 宗教の問題

第四章 文化の問題

第五章 国立追悼施設の問題

 

 

という構成です。

個人的には、1章から2章の流れが興味深かったです。

 

靖国神社は、亡くなった日本の軍人の戦死の悲哀を幸福に転化していく装置であった。

亡くなった軍人を「追悼」するのではなく「顕彰」する。

 

「当時の日本人の生と死そのものの意味を吸収しつくす機能を持っていた。」

「戦死者が顕彰され、遺族がそれを喜ぶことによって、他の国民が自ら進んで国家のために命を捧げようと希望するようになることが必要であった。」

 

そのようなシステムが作られ、一章、感情の問題

日本の軍人、軍属として亡くなった方の遺族の感情の問題と、アジアなど被害者やその遺族の感情の問題がぶつかる。

 

そこで二章、歴史認識の問題

それを「どっちもどっち」とか、「それぞれ立場があるよね」で終わらせるのではなく、だからこそ歴史認識が重要だということ。だからこそ、日本が行った植民地支配、戦争がどのようなものであったのかということへの理解が重要である。

 

もちろん、明治維新から、日清戦争日露戦争という時代から。

まさに朝鮮への支配を強めていく時代。

求められるものは感情の調停ではなく、歴史と向き合うこと。

 

歴史認識、価値判断が求められる。

 

 

そして、靖国神社がその中でどのような思想によってどのような役割を果たしたのか。

 

靖国神社は、大日本帝国軍国主義の支柱であった。」

靖国信仰は、天皇その人をほかならないとされた国家を神とする宗教」

 

靖国神社の存在とその思想は、明治維新日清戦争日露戦争15年戦争といった日本の戦争を「栄光の戦争」、「自衛戦争」と規定し、そので亡くなった軍人を英雄として顕彰するものである。

 

台湾植民地支配、朝鮮植民地支配も入る。

日本が台湾、朝鮮を植民地支配していく中で、日本の支配に抵抗し殺された人たちは、「蛮害」、「凶蛮」、「暴徒」、「匪賊」という語で表される。

 

その中で、日本軍は台湾、朝鮮の民衆を「ことごとく殺戮」(日本軍総司令部の表現)してきた。朝鮮においては、甲午農民戦争時の虐殺、義兵やその協力者への虐殺など。

 

靖国の思想とは、究極の植民地主義思想といえる。

 

靖国神社の問題は、外交上の問題であったり、宗教(政教分離)の問題として取り上げられることが多いですが、まず何より歴史認識の問題、思想の問題であると思います。

 

本書でもそこに一番の重点が置かれているように感じました。

 

そして、宗教と政治(経済)の問題。

やはり、資本主義の問題が必ず現れます。

 

なぜ、靖国神社のような存在が必要であったのか。

軍事化と支配の拡大という政治権力の意図が背景にあり、そのためのナショナリズム、「国のために喜んで死ぬ」システムが必要であった。 

 

そうした政治権力の意図の背後には必ず独占資本の意図があります。

まさに明治の時代、それが膨張しアジア侵略へと突き進んだ日本の歴史と向き合う上で、不可欠な視点ではないでしょうか。

 

やはり、またここでも「資本主義」が出てきます。

そして、それは現在も続いています。

 

筆者も言う通り、

靖国神社は旧帝国のイデオロギーがそのまま生き続けている場所なのである。」

 

②に続く

 

(黄貴勲)