本紹介「褐色の世界史 -第三世界とはなにか」①

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留学同大阪、本部の学習会の題材として、

『褐色の世界史 -第三世界とはなにか』という書籍を取り上げました。

この本が、本当に興味深く、タイトルの通り、教科書的な世界史では学べない、または無視されているアジア・アフリカ・中南米の歴史に触れることができます。

 

序文が

第三世界は今日、一つの大きな塊としてヨーロッパに対峙している。そのプロジェクトとは、ヨーロッパがこれまで答えを見つけられずにいる問題を解決しようとすることであるはずだ。」というフランツ・ファノンの言葉の引用から始まり、

第三世界とは場所ではない。プロジェクトである。植民地主義に対する果てしなくも見えた闘いの中で、アジア、アフリカ、ラテンアメリカの人びとは、新しい夢を見た。」と続く。

 

第三世界の国々が、何よりも尊厳を求め、土地、自由、平和を求めた運動の歴史に驚かされます。

 

植民地主義闘争の中での連帯・団結。自国において支配者との闘いを通じて、また不公正な国際社会に対して、社会正義・人民のための社会システムを求める運動の歴史。

また、逆に、そうした連帯や団結を崩そうとし、旧勢力を結託して政権や新たな社会システムを崩壊させようとし、実際に軍事介入や経済侵略によって数々の犯罪を犯してきた米国を中心とした帝国主義勢力の歴史。

 

それは過去の話ではなく、現在も形を変えながら続いているといえる。2000年代以降でも、アフガニスタンで、イラクで、リビアで、シリアで、アメリカと追従勢力が何を行い、それに対してどのような抵抗闘争があるのか。第三世界の歴史から学ぶことは多いはず。

そして、何よりも朝鮮半島の歴史と情勢を観るうえで貴重な視座を与えてくれる一冊だと思います。

 

第一部の章立てが、パリ、ブリュッセル、バンドン、カイロ、ブエノスアイレステヘランベオグラードハバナと都市の名前で構成されており、植民地からの独立を求める闘争から、「第三世界」の形成、国連を中心の舞台とした国際社会での連帯と、ダイナミックな運動が展開される様子を学ぶことができます。

 

 

日本語文献でなかなか学ぶことのできないものだと思います。

日本において、第三世界について、アジア、アフリカ、中南米の歴史や思想について、もっともっと研究がなされるべきなはずが、軽視されていると思います。それは同時に朝鮮についても言えるでしょう。

私が大学・大学院で学んだ国際法の領域ではそれが本当に顕著に現れています。

 

そういった意味でも、是非とも本書を一度手にとって読んでみてください。

次回以降の更新で内容に言及していこうと思います。

(黄貴勲)

朝鮮学校高校「無償化」裁判についての学習会 ~広島、大阪、東京の判決の比較~②

・裁判における法律の重要な争点として、

1 (ハ)削除の違法性

2 規程13条適合性

が挙げられていました。が、

今回は、2つ目の規程13条適合性について書きます。

「規程」とは、前回論じた(ハ)の規程にもとづいて適用する際の基準を定めたものです。

13条は、「2章 指定の基準」の中にあり、(適正な学校運営)という条文で、

「指定教育施設は、高等学校等就学支援金の授業料に係る債権の弁済への確実な充当など法令に基づく学校の運営に適正に行わなければならない。」というものです。

 

前回に書いた通り、まず何よりも規定(ハ)の削除の問題が一番重要な争点であるということを確認しておきます((ハ)を削除し(ハ)がなくなってしまえば、そもそも「規程」自体の意味もなくなってしまうので)。

そのうえで考えたとしても、さらに、この規程13条の条項は、規程の中でも曖昧なもので、重要度は低いと考えられます。

その前の2条~12条までに具体的な基準が示され、一応それ以外の事が考慮されるべき時のための予備的な規定とみることができます。

なので、「適正な学校運営」という曖昧な基準が出てきていると考えられます。

 

国側は、(ハ)の削除がめちゃくちゃな暴挙であったことを認識し、この規程13条という曖昧な基準を持ち出し、基準に適合するとはいえないという論理を展開しました。

そして、その際に、教育基本法16条1項の「不当な支配」という条文を持ち出し、朝鮮学校が朝鮮と朝鮮総聯の不当な支配を受けているという主張を行いました。

 

教育基本法16条1項

「教育は、不当な支配に服することなく、この法律及び他の法律のさだめるところにより行われるべきものであり、教育行政は、国と地方公共団体との適切な役割分担及び相互の協力の下、公正かつ適正に行わなければならない。」

 

教育基本法16条1項は、戦前の日本の教育が国家の支配の下、軍国主義または極端な国家主義的傾向を帯びる面があったことに対する反省からきているものであるにもかかわらず、その条項を利用し、国側は何とか朝鮮学校を除外しようと規程13条に結び付けてきた。

 

そして、広島と東京の判決では、国の論理をそのまま踏襲し、最も重要な争点である(ハ)の削除の違法性の判断から逃げたうえで、規程13条の基準に適合しないという結論を出しました。

さらに、東京判決は、文部科学大臣に無制限ともいえる広い裁量を認め、司法の役目を放棄したに等しい、国家権力にべったり癒着した姿を見せました。

 

それに対して、大阪判決では、

(ハ)削除の違法性をはっきりと論じ、教育の機会均等という法律の趣旨とは無関係な政治的外交的理由で規定を削除したことを違法、無効を断じた。

そして、規程13条適合性についても、「特段の事情」がない限り規程13条を充足するとしながら、「不当な支配」の判断についても、教育基本法の趣旨から文科大臣の裁量はないと結論付けた。

 

つまり、広島と東京の判決では、

(ハ)の削除は、国がめちゃくちゃな暴挙を断行したため守れないのであえて無視し、

規程13条という、曖昧でどうにでもとれる、どうでもよい条文を利用して国家権力にへつらった。最も重要な法の趣旨・目的を無視するという、明らかな暴挙を司法が行い、なおかつ偏見と憎悪に満ちた文章を並べた。

 

大阪判決では、(ハ)の削除についても、規程13条適合性についても、法の趣旨・目的にそった誰がどうみても当たり前な論理をもって、すっきりと判断した。

 

広島・東京の、理念も法の精神も目的意識も欠いたヘイト判決、論理破たん判決を受けて、やはり司法がいかに政治的であるか、国家権力・行政権力の圧力を受けていることを感じさせられました。

 

広島、大阪の判決は裁判所の判例検索にあがっています。

興味のある方は全文を読んでみてください。   (黄貴勲)

裁判所 | 裁判例情報

高校「無償化」裁判についての学習会 ~広島、大阪、東京の判決の比較~①

2017年10月17日、朝鮮学校高校「無償化」裁判、地裁判決についての学習会に参加しました。

 

・裁判における法律の重要な争点として、

1 (ハ)削除の違法性

2 規程13条適合性

が挙げられていました。 

 

ここでは、(ハ)削除の違法性について書きます。

※規程13条については次回に。

 

(ハ)とは、高校無償化法の施行規則の中にあります。

施行規則とは、法律を具体的に実施するための細かいことを書いたものです。

(ハ)とは、施行規則第一条第二項にあり、各種学校に高校無償化法を適用する際に「文部科学大臣が定めるところにより、高等学校の課程に類する課程を置くものとして、文部科学大臣が指定したもの」というものです。

簡単にいうと、各種学校のうち、客観的に見て日本の高等学校相当になるものには適用しましょうということです。

 

朝鮮学校は、この(ハ)によって申請し、高校無償化制度の適用を受けられるはずでした。

しかし、自民党政権になり、この(ハ)自体が削除され、ゆえに朝鮮学校は適用されないことになりました。

 

よって、裁判において、この(ハ)を恣意的に削除したことが最も重要な争点になるはずでした。

しかし、広島判決、東京判決では、この(ハ)削除の違法性については触れられていません。

大阪判決では、ハ削除の違法性については、政治的外交的意見に基づいてハを削除したため、本来の高校無償化法の趣旨に反するので(ハ)の削除は違法、無効であると述べています。つまり、大阪判決では、(ハ)の削除が無効なので、(ハ)は復活するということになります。

 

 

本来、(ハ)を削除したことで朝鮮学校が不適用となったので、裁判でもその点がまず論じられるべきでした。しかし、広島と東京の判決はその判断をせず、二つ目の争点「規程13条適合性」のみ判断し判決を下しました。

規程13条適合性については次回書きますが、これは本来考慮されておらず突然国側が出してきた論点です。

 

教育に係る経済的負担の軽減を目的とした高校無償化法において、(ハ)の削除はどう考えても問題が大きいと言えます。趣旨からして、わざわざ適用の範囲を狭くするようなことをする必要はなく、してはいけないことであるため。

また、下村文部科学大臣自民党の議員も拉致問題についてや、朝鮮総聯との関係についてなど、そもそも考慮されるべきでない理由を持ち出して(ハ)の削除に踏み切ったため、国側もその問題性は十分に理解していたはず。

 

ハを削除したのなら要件適合性の議論はしなくてもよいはずなのに、国側が不指定の理由として、規程13条の不適合をつけてきたということがその証拠といえるだろう。

 

無償化法の土台だけでは、朝鮮学校を除外することなど絶対にできないため、(ハ)削除の違法性の議論をそらし、規程13条適合性の議論に持ち込もうとした。

そして、広島と東京では、国の意向を忖度した裁判所がその土台に乗って、国の言い分を全面的に認め、朝鮮学校に無償化制度を適用しないことを違法ではないという結論を下したのである。

 

広島、東京の例からまとめると、
(ハ)の規定から朝鮮学校が適用されることが明らかであった。

民主党政権がそこに踏み出せずジタバタしてる間に崩壊した。

→ そもそも適用する気のない自民党政権が無理やり除外を強行した

→ 権力の意向を忖度した裁判所が無理やり国を勝たせるための判決を出した。

 

広島と東京の判決があえて無視した(ハ)削除は、どう考えてもとてつもなく無理やりすぎて、国にべったりの裁判官ですら触れられなかったくらい極めて不当で不法な行為であったといえることができると思います。

 

※「規程13条適合性」と、大阪判決については、追って書きたいと思います。

(黄貴勲)

和歌山在日朝鮮人社会研究の意義を考える ~和歌山での証言を聞いて

 和歌山の在日朝鮮人社会について考えただしたのは、奈良の朝鮮学校再建の運動に接し、奈良朝鮮幼稚班について、奈良の同胞社会について考えるようになったことからであった。

 奈良朝鮮初中級学校は2008年に休校になり、奈良県内にウリハッキョがなくなった。その結果、同胞たちが集まる場と機会が少なくなっていき、奈良県の同胞社会自体も活気を失っていったという話を色んな人から聞いた。

 対照的に、和歌山県は現在も和歌山朝鮮初中級学校が存在し、幼稚班から中級部まで体系的な民族教育が続いている。しかし、和歌山県は、奈良県よりも在日朝鮮人人口は少なく、近畿圏の中でも最も少ない県である。にもかかわらず、「学校を絶対になくしてはいけない」という気持ちと実践のもと、現在も学校が運営され、学校を中心に同胞コミュニティが存在する。

 

 現在、全国各地で在日朝鮮人の民族教育が困難を抱え、さらに近年の高校無償化制度からの除外、地方行政の補助金のカットなどを受け、どの学校も危機的な状況にある。和歌山でも同様であり、むしろもっと昔から危機的な状況にあった。

 

 そのような中で、もう一度、在日朝鮮人にとっての民族教育の意義とは何か? 同胞社会の存在意義とは何か? という問いを立て、自分たちの行動と選択、運動を実践していなかなければならない。

 

 和歌山の在日同胞社会も、学校が存続するからといって問題がないわけではない。人がいなくなり、同胞が集まる場がなくなり、地域社会が失われたという話もインタビューの中で多く出てきた。同胞が少なくなり、運営が難しくなる中で、学校を存続することを諦めようという声もあったという。中級部をなくす、土地の一部を売却するという話もあり、現在でも運営のためにどのようにすればよいのか、日々悩みながら、知恵と力を出し合いながら維持されている。

 話を聞けば聞くほど、和歌山の同胞コミュニティを守るためにハッキョを必ず守るという意志がどれほど強いかを感じ、学校を守るためにどれだけの力が集結されてきたのかということを痛感する。「学校があること自体が奇跡」と言われた言葉はまさにその通りである。

 

 しかし、そのような営み・歴史は和歌山に限らず、全国各地の同胞社会、朝鮮学校についてもいえる。そして、私たちには想像もできない激動の時代、波乱の人生を生きた一世・二世たちこそがそれを体現した人たちである。

 

 在日朝鮮人の歴史は、今を生きる私たちに、自分たちはどのように生きるのか、生きなければならないのかを問いかけてくる。「本当に命をささげて同胞社会と学校を守った先輩方がいた。若くして亡くなられたそうした先輩方がいたからこそ今がある。」という言葉が胸を打つ。

 

 一世・二世たちが残した同胞社会・朝鮮学校の未来は間違いなく次の世代にかかっている。自分たちがどのように考え、行動し、選択し、実践するか。そのためにも、まず消されそうになる歴史を残し、歴史に学ぶ作業が不可欠である。和歌山の在日朝鮮人社会の研究が、そのような小さな萌芽となることを目指して、そして何よりも微力ながら和歌山の同胞たちの財産となるように、これからもより広くより深く研究していきたいと思います。

(黄貴勲)

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 同胞社会・民族教育の意義 ~和歌山同胞大運動会に参加して~

10月1日(日)、和歌山朝鮮初中級学校の運動会に参加しました。

ここでは書ききれないほど、内容と雰囲気の素晴らしさに感動し、力をもらいました。

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同時に、改めて、同胞コミュニティの意義や、民族教育の大切さ・強さを感じました。

日本の中で、同胞同士がつながり/集まり/協働することが、自分たちの人生にとっていかに重要であるか、子どもたちの教育にとってどれほど大切な影響を与えるか。

 

和歌山の同胞社会は、同胞数が少なく集住しているわけでもないにもかかわらず、同胞同士のつながりが強く、コミュニティの温かさをより強く感じます。

「和歌山の人は、和歌山が好きで和歌山にに残る」「同胞同士つながりの無い人がほとんどいない」「他の地方から来た人もすぐに溶け込めるような温かさがある」「昔から、他の地方から人を引っ張ってくるほど」という話も聞かせていただいたほど。

 

園児、学生たちも主役として、同胞たちと一体となって、ものすごく楽しく安心して伸び伸びと練習の成果を披露しているように感じました。

そして、その温かい環境の中育った子どもたちが、その素晴らしさをしっかりと認識し次世代として地元に戻ってくる。

まさに在日朝鮮人の民族教育の強さを体現している地域社会の形といえると思います。

 

しかしもちろん、その過程は簡単なものではなく、一世・二世の方々を中心とした、想像もできない、並大抵でない努力の賜物であったのでしょう。

「一世・二世の人たちが…」と、ただ決まりきった言葉で表現するだけでなく、それが本当にどういったものなのか? 自分たちがどうするか?

本当に心の底から真摯に受け止めなければならない問題だと思います。

 

来年、和歌山朝鮮初中級学校は創立60周年。

学校を本当に守っていけるのか。これからの未来をどのように作っていくのか。世代交代が進む中で、自分たちの理想の社会像・ビジョンをいかに示せるか。

 

留学同大阪では、和歌山同胞社会について研究を行い、来年度に向けて目に見える形で伝えていこうと思います。

(黄貴勲)

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