大阪朝高ラグビー部の躍進に想う -自戒 「消費するな、闘え」-
感動しましたね。ものすごく。
応援者として試合を観ながら感化されながら、感じたこと・考えたこと・自分を戒めたことを書きます。
「消費するな、闘え」
日本政府による政治弾圧と。
日本政府による高校無償化からの排除、大阪府・大阪市による補助金の強奪、
朝鮮学校の運営はその中行われており、もちろんラグビー部も、その他すべての部活動も全ての教育活動もその中で行われている。
「条件の悪い中頑張っているね」、で済む問題ではない。
意図的に、人為的に条件を圧倒的に悪くされている。
加えれるなら、日本の権力と社会によって負けるように圧力がかけられている。
そのせいで、通いたくても通えない学生、選択肢に入れれない学生も多数いる。
経済的理由においても、政治的理由においても。
教員、保護者、関係者たちは文字通り、その文字通り「命を削って」民族教育を守っている。
少人数にもかかわらず、全国3位はすごい。
設備も整っておらず、スポーツ推薦もなく、在日朝鮮人だけが通う学校なのに、すごい!
でとどまってはいけない。
朝鮮学校の部活動の活躍を、スポ根マンガのような、「第三野球部」のような、
そんな青春ストーリーでくくるのみではいけない。
(ちなみに、選手の数だと、大阪朝鮮39名、桐蔭学園102名、京都成章123名、東福岡135名だそうです。 他のスポーツでもそうですが、100人を超える選手の数は歪んだ資本主義スポーツ文化だと思います。)
もちろん大阪朝鮮高級学校の活躍が素晴らしいことは言うまでもない。
特に、学生たちの発する言葉一つ一つに自分を反省させられる力がある。
しかし、その際同時に問題視されるべきは、政治弾圧をどのようにとらえ、どのように向き合うかである。
一人一人の主観がどうあれ、弾圧を受けながらラグビーをし、弾圧を受けながら学校生活を送り、弾圧を受けながら闘っていることは厳然たる事実である。
消費で終わってはいけない
これが今回自分にもっとも強く感じた言葉であった。
「ホイッスルは平等に吹かれる」??
政治権力がこれほど露骨に差別を行い、司法も社会もそれを容認している状況で、果たしてスポーツは平等でいられるだろうか。
それは不可能である。
断言できる、不可能であると。
「スポーツと政治は別」 は詭弁。
スポーツには当然に政治も経済も密接につながっている。
それを意図的に切り離すほうが極めて不自然。
政治経済文化、生活に密接につながっているそれらのものがスポーツとは別なわけがない。
そうあってほしいとはいくら思い信じたとしても、プレイしている選手間において超えることがあったとしても、それを普遍化することは罠にはまる。
ゆえに、ホイッスルは平等には吹かれない。
少なくとも、これだけの政治弾圧がある中でそれを信じろというほうが酷である。
仮にホイッスルが平等に吹かれたとしても、スタートから不平等は押しつけられている。その瞬間だけを切りとった平等は危険である。
個々の事例において素晴らしい出来事、連帯の可能性、人間の普遍的なつながりがあることは重々承知のうえで、あえていうべきであると考える。
とりまく政治・社会がこんな悪辣な状況なのだから。
「感動をありがとう」と超大作映画の感想で終わるのではなく、政治的弾圧に抵抗する政治闘争の導火線に火をつけなければならない。
消費で終わらずに、闘いたい。
*個人的には、大阪朝鮮高級学校の強さの秘訣は、
「思想の力、社会の力、一心団結の威力」
だと思っています。
(黄貴勲)