【靖国問題! 植民地支配責任、戦争責任、戦後責任②】 本部学習会振りかえり
アンニョンハシムニカ!
前回、『靖国問題』の概要と重要だと思うポイントを書きました。
一つ補足しておくと、
靖国の戦前認識と戦後認識の連続性について。
戦前の「天皇の戦争=正しい」から、
戦後は、自衛隊の活動の正当化へ。
すなわち、アメリカの世界軍事戦略の正当化。
そして、その論理でいくと、アメリカの戦争に抵抗するアジア、中東、中南米などの民衆は「匪賊」「暴徒」という認識になるでしょう。
という意味でも、現在の問題でもあるということです。
そして続きです。
第三章 宗教の問題
一つは、「追悼」の問題
靖国神社では、権力による合祀の強制がなされた。
合祀を拒否できない。
その中には、思想的に神社参拝を受け入れられない人間もいます。
そして、日本軍の軍人・軍属として働くことを強制され、亡くなった台湾人、朝鮮人も数多くいます。台湾人は2万8千人余、朝鮮人は2万1千人余。
そして、靖国神社側は、「天皇の意志」として、合祀の取り下げ要求に応えない。
天皇の意志により戦死者の合祀は行われたのであり、遺族の意志にかかわりなく行われた。
しかし、死者の追悼とは何よりもまず遺族の意思が第一なのではないだろうか。
そのような感覚は靖国思想には通じない。
二つ目は、「政教分離」の問題
日本国憲法第20条第3項
「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」
首相の靖国神社参拝が問題視されます。
司法においても、違憲判断が出ています。
小泉首相(首相)の参拝について、福岡地裁判決で違憲判断がくだされています。
(当時、裁判長は遺書を書いて判決に臨んだと言われています。)
前回も書きましたが、
政教分離の問題の前に、中国や韓国からの批判の前に、靖国神社の思想そのものが問題となるべきであることを前提に。
日本は明らかに靖国神社そのものとその思想を温存し、建前のみを変えたうえで実践として再演しようとしています。
政教分離をクリアするために、建前だけ宗教施設でないようにするという試みです。
「神社非宗教」論が出てきます。
超宗教論、非宗教論、無宗教論、などがあるそうです。
いずれにせよ基本は、神社は宗教ではなく日本固有の文化であるという主張。
「靖国は憲法にいう宗教ではない。日本人なら誰でも崇敬すべき『道』である」
(池田宮司の言葉)
そして、第四章 文化の問題 へ
「文化である」、「伝統である」、という回収に仕方。
そうして政教分離をごまかす。
さらにそこから、「日本の文化なのだから他国が批判するな」という論理へ行きつきます。
しかし、どう考えても靖国の思想は、明治の時代に創作されたものです。
資本主義の論理、帝国主義の論理とリンクして作られたものです。
そうした歴史性、政治性をすっとばして、「文化」「伝統」で片づけようとする企図が見えすえているかと思います。
あらためて、やはり歴史認識、そしてそれに基づいた戦後認識が問われると思います。
最後に、「問題は政治である」という筆者の主張はすごく的を得ていると思います。
付けくわえるなら、「問題は資本主義である」でしょうか。
(黄貴勲)