本紹介⑧「ことばと国家」 在日朝鮮人の言語、ことば、ウリマル、朝鮮語
アンニョンハシミカ!
本紹介です。
「ことばと国家」
本部学習会でも扱いました。
学習会報告は、以下のページ参照
すごく重要な一冊だと思います。
面白いです。
普段、あまり意識しない「ことば」。
深いです。
ことばは世界を形成する。
ことばによって世界は成立する。
ことばは物質に先立つ。
もっともっと深めていきたいですね。
以下、学生書評
私は、言語についての学習会を行うにあたって、本書を手に取った。
なじみ深い反面、今まで深く考えてこなかったようなことばというものに対して、
とても興味を惹かれ、一息に読み進めることができた。
私たちは、文法に則って、普段のことばを話していると思っている人が多い。
そのため、私たちが何気なく口にする、「事故る」であったり、「全然大丈夫」といったことばは、文法的には誤っていると言われる。
しかし、実際は「話すことは書くことに先行する」(ソシュール)。
つまり、人が話したことばの固定化、永久保存化を、文法が担うのである。
ことばは、話し手によって自らを変化、発展させていく性質を持つ、ということは、本書で一貫して述べられている。
社会にははるか昔から、エリート言語階層が存在した。
そんな階級の中で、民族のことばをそれとは知らずに執拗に維持してきたのは、
文化的知識人などではなく、政治や社会的場面に最初から排除されてきた女性と子供であった。
ラテン語と俗語の例でも、日本の漢語とヤマト語の例でも同様である。
その点こそ、私たちが最初に身につけることばを母語と呼ぶ所以である。
私たちは、生まれた瞬間、あるいはその前から、母が話すことばを聞き、それを真似て母語を身につける。
知らず知らずのうちに身につけたことばが、社会的マイノリティの言語であったり、植民地下にある朝鮮語だったりする。
そうやって一度身につけたことばは、捨て去ることも、取り替えることもできない。
その特性から、母語は民族を形成する要素の一つ足りうる。
また、現存の国家の境界線すら無視してしまうという、政治的迫力を秘めている。
国境内で母語の相違が強ければ強いほど、その地域が独立する可能性は高まる。
一方、かのナチ党が、「ドイツ語を母語とする」オーストリアとズデーテン地方を併合したことは、母語が国境を越えた例として挙げることができる。
その防止のために、学校教育があるのだと、著者は言う。
ことばの発展を固定化する「文法」は、ことばそのもののために必要なのではなく、国家とその付属設備である学校と教師のために欲求されるのである。
文法は、自ずと生まれ、うちから湧き出る性質を持つことばを、「すでにできあがった」「国のことば」としての地位を確立させる役割を果たす。
植民地宗主国が、自国の国語の教育をえてして植民地下の国に施したように、
あるいは、かつて罰札制度という形で、自国の方言を矯正したように、
言語の統制は、植民地主義には必須であった。
植民地主義による外来語の侵入と、学校教育による「標準語」、民族一体イデオロギーの押し付けは、言語による差別を生んだ。
以上の点において、本書は、言語という新たな視点を私に与えてくれた。
一人の人間として、そして一人の在日朝鮮人として、
言語と民族の関係、そして国家の関係を捉えるのに、本書は必読の一冊であろう。
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